ラカンによれば「言語は現実を語れない」。
ところが同時に人は「言語でしか現実を語れない」。
そして彼は、「語りえない現実」を「現実界」、
「言語によって語られる現実」を「象徴界」と名づけた。
人は、「言語」を用いる限り、「現実界」にはたどりつけない。
しかし、時に垣間見てしまったり、触れてしまったりすることがある。
たとえばそれは、「狂気の中にいる者」である。

プラトンの著作を読んでいると、彼がほとんど同じことを言っていることに気づかされる。
紀元前400年。ラカンのおよそ2375年前に、同じようなテーゼが語られてるのって、ちょっと衝撃的。

「ひとつの技術を文字の中に書き残したと思い込んでいる人、また、書かれたものの中から何か明瞭で確実なものを掴みだすことが出来ると信じている人、こういう人たちは皆大変なお人好しである。なぜなら彼らは、書かれた言葉というものが、書物に取り扱われる事柄について知識を持っている人にそれを思い出させるという役割以上に、もっと何か多くのことをなしうると思っているからだ」     (プラトン「パイドロス」)

プラトンは、「言葉」というものが「道具」に過ぎず、「世界そのもの」を描き出すことは出来ない、と言っている。

「魔術的リアリズム」という本の中で引用されている1915年のキリコの言葉も、たぶん同じことを言おうとしているのだと思う。

「すべての事物はふたつの局面を持っている。ひとつは、私たちが日ごろ見ており、人々が一般に見慣れている局面であるところの日常的局面であり、もうひとつは、ごく稀な個人が幻視や形而上的抽象の瞬間にしか見ることの出来ない、妖怪的もしくは形而上的局面である」              (種村季弘「魔術的リアリズム」)

前者をラカンがいう「象徴界」、後者を「現実界」と考えれば合点がゆく。

今回の震災を機に、「現実界」の裂け目が露わになってきている気がする。
それを描きたい。覗き込めるだろうか、ぼくは。狂気に飲み込まれずに。



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