クロムさん買いました!

読んでます。

運動しよう!!
と心から思いました。

運動すれば、少しは自分を好きになれるかも!
そしてもろもろの欲求から解放されるかも!!
よしやろう!!!

で、本の中に
「まず最初になわとびして
 現在の体力をチェックしましょう」
と書いてあるので、

なわとび買いに行こう!!!!
と決心し、

はや10日。

明日こそ明日こそとて暮れにけり

って感じです。

ダメだ…。


5月20日の日記

2012年5月20日 読書
仕事の大きなイベントを終えて、打ち上げの席で次の仕事の話に。
こうやって仕事がつながってゆくのはうれしい。

昔、「あなたは食べることに関してだけはマメだ」と言われたことがあるけど、最近、同じようなことを「仕事」に関して言われるようになってきた。
たぶん、ぼくは自分の欲求を充足することに関しては人より熱心で(それをマメと言うのかもしれないけど)、最近になって、「仕事」が、自分の欲求充足の対象として、プライオリティが日々上がって来ているように思える。

「食」にこだわる時に、「どうやって少しでもおいしいものを口にするか」を
あれこれ考えるように、仕事においても「どうやって仕事の内容を少しでも
精度の高いものにするか」をあれこれ考える。で、考えれば考えるほど、
「対象はマスじゃなくていいんじゃないか」という思いが日増しに強くなっている。
もちろん、少しでも多くの人に届けることは大事だけれど。

新しい職務領域では、そのあたりのところをつきつめて考えてみたいと思います。

「古代ローマ人の24時間」はホントに面白い。
特に、巻末の「ローマ人の性生活」のくだりは、まさに「夜のテルマエ・ロマエ」。
癒されます…。


結局、最大の問題は、自分の制作スタイルにあることに気づく。
①テンションの低い状態でアイデアを集積させる
②テンションの高い状態でアイデアを発散させる
で、日頃のぼくは①の状態が7、②の状態が3くらいだったんだけど、どうも去年の地震からあとは、①の状態が9、②の状態が1くらいな感じになっている。たぶん、病院とか行っちゃうとフツーに「鬱です」とか言われちゃうような。でも鬱、って言われても何のメリットもないので行きませんが。

ただ、①を②に持ってくのが、どんどん出来にくくなってたことは確かで、去年は本当に、自力では何もできなかった。誰か他の人の支えがなければ。ただそれって、②を作り出すために誰かの存在を利用する、ってことで、そんなんに巻き込まれる他人もたまったもんじゃないだろうし、ぼくがその「対象」だったら絶対イヤなのでもうやめようと思います。ミューズは手洗いだけに使おうよ、と。

で、今年に入って、誰とも口をきかない正月を過ごして、改めて「自分の力で②を作り出すこと」の重要性を切実に感じ、昔付き合ってた女の子に聞いた(←この時点で自力とは言い難いですが)「口角をあげると脳は楽しいと勘違いして本当に楽しくなってくる」を実践したりしてたのですが、たまたま本屋でこの「アーティストのためのハンドブック~制作につきまとう不安との付き合い方」を読んでたら、めちゃくちゃテンションが上がってきました!フツーの自己啓発本とかビジネス書とは違って、ものを作る心構えについて、すごく具体的に、かつ説得力のある書き方で書かれている。あと、こういう本には珍しく、情報量が多くて、いい意味でなかなか読み進められないのが魅力的です。

ある美大の授業で、あるチームには作品の量にこだわって、あるチームには質にこだわって制作をさせたところ、評価の高かった作品は、すべて「量にこだわって制作したチーム」から出た、という話はすごく示唆的でした。本の中で、アンセル・アダムスは同じことを「完璧であることは、よいことの敵である」と表現しています。もしも画面の中のすべてが完璧になることを待っていたら、自分は一枚の写真も撮れなかった、と。完璧を志向するといつかは作ることをやめてしまう。だから、完璧なものではなく、自分にとっての「よいもの」を志向しなさい、と。
…アガりました。

ホントは「村上龍映画小説集」が読みたかったんですが見つからなくて。この本もぼくにとっての「アガる本」なので何冊か持っていたんですが、いつも人にあげてしまっていつの間にかなくなってしまっていて…。そういう「アガる本」とか「アガる曲」とかで、ことしは自力で②の状態を作り出したと思います。できたら①:②≒6:4くらいに持っていきたい。がんばります。

1月12日の日記

2012年1月12日 読書
去年の1月にぼくはある企画を出してボツになった。でも、さほど思い入れもなかったので、そんなものかな、と思って、落ちたことも忘れていた。で春頃、後輩に何となく、こんな企画を出して落ちたんだよね、って話をしたら後輩が「その企画、ちょっとだけ書き直して連名で出していいですか?」と言うので、いいよ、どうせ落ちた企画だし、なんて言ってたら、あれよあれよと試作品制作、より大がかりなテスト作品作成と進んで、いよいよこの春大々的に世に出ることになった。いい話!…なんだけど、なんか一連のこの感じが、ぼくの最近の体たらくを象徴している気がする。
問題点は3つ。

1)どっかズレてる。でも自分ではどこがズレてるのかわからない。
  たぶん後輩には、それがわかった。だから、矯正することが出来た。
2)どうしてもこの企画を通そう!という気概がない。
  後輩は、企画選定者と何度も飲みに行ったりコミュニケーションを取って、
  ねばり強く企画を成立させていった。ぼくはあっさり捨てた。
3)というようなことに関して、ぼくには何の感情も沸いてこない。
  悔しくもないし、逆にうれしくもない。これは何なんだろう…。

 つきつめてゆくとこれらのマイナス点は、ぼくが自分の感情の振れ幅、特に大きく負に触れた時の自分の感情を、ひとりでコントロールできないということから生じている気がする。なので、気持ちを切り替える意味で、ピーター・ゲイの「官能教育」(みすず書房)を読み始めました。この本は、19世紀ブルジョアジーたちが、いかに「性愛」というものの「正しさ」の概念を革命的に変えていったか、を精神分析学に依拠して読み取ってゆこう、という本らしいので、一度きちんと読んでみたくて。あと楽しそうだし。「メイベル・ドットの奔放な性愛記録の分析から、精神と現実世界が対峙する場としての「無意識」の力を解明する」という帯にも魅かれました。これから読み進めたいと思います。


風邪がおさまってから、毎日飲んでる気がします。
てんでダメだな、こんなんじゃ。
クリエイティブからどんどん遠ざかっている気がする。
ふと気づいたんだけど、ぼくはそんなに頑張っていない。
「費用対効果」のエクスキューズのもと、自分で汗をかかずに、
自分以外の人をどう頑張らせるかに注力してきた気がする。
ネット依存の人は45秒しか集中力が続かないっていうけど、
いまのぼくはそれに近い。意識が一点に集中しない。
あれもこれも手に入れたがって、結局何も背負おうとしてない。
自分の問題点をここに書き連ねても面白くもないのでやめますが、
改めてブローティガンはいいですね。
いま読んでるのは「バビロンを夢見て」って本ですが、
物質主義から遠く離れて、瀟洒ではない、どちらかといえば
貧しいやせ細った言葉が連なっているのに、なんだか知らないけど
ありえないくらい美しい風景が目の前に浮かんできて。
ずるいと思った。死ななくてもよかったのに。
全集とか出ないかな、ってちょっと思いました。絶対買う。詩集も。
でもブローティガンばっか読んでたら社会人としてダメになりそうなので、
これが終わったらマーケティングの本を読もうと思います。
目の前の仕事もひとつひとつ片づけていかなくちゃ。
ここへきて、ようやく仕事ときちんと向き合おうという気になってきました、
ことしも。きょうまではホンっとにやる気が出なくて。
どうしようかと思ってたんですが、明日から頑張ります。
たぶん…。

寝た。とにかく寝た。この4日で起きてたのが12時間あるか、ってくらい寝た。ホントは2日は会社に行くつもりだったんだけど、たぶん体温を測ると数字見て倒れるだろうというくらいの高熱が出てて断念。まあお祝い事だからいいか。昔親に「お祝いは必ずしも行かなくていいけどお悔やみは必ず行きなさい」と言われたし。

年末に、忘年会という名の飲み会の連続、突然のトラブル発生→謝罪(うまくおさまりました!)、次年度に向けた大きな宿題、年内に処理マストの伝票の山、プライベートでの怒涛の展開などが相次いですっかり疲れ切っていたのか、31日に自宅に戻ってさあ一休み、と思っていたら突如めまいが。で、明らかに高熱を発していて、そこからはさっきまでほとんど寝っぱなしの生活でした。ちなみに31日の夜から一歩も外に出ていません!自慢になりませんが…。冷凍食品のおかげで生き延びられました。元加ト吉(今なんて名前か忘れました)のきつねうどん、ホントにおいしゅうございました。あとジャガビーとか。買いだめしておいてよかったです。

今は丈夫だし、4日になったら会社があるから、と思って、気合で風邪も治せるからいいけど、もしリタイアして、からの、こんな年末年始はさすがにつらいんじゃないだろうか…と、自分の生き方をちょっと反省したりしております。悪夢もたくさん見ました。たぶん、一年の厄を3日で落としたんだ、これからことしはいいことばかりに違いない!と考えて、頑張ろうと思います。夜、何食べようかな。お弁当屋さん開いてるだろうからとんかつ弁当でも買いに行こうかな。あ、大戸屋さんがつぶれてとんかつ弁当屋さんが出来たんです!HP見てやってるかどうか確認してみよ。

ずっとこの本を読んでました。すごく具体的で面白かった。手に入れたいものが何かわかっていれば、人はこんなふうに明確な設計図が書けるんだな、と思いました。ぼくにはまだ、自分が本当に欲しいものが何かすら、明確にわかっていない。ましてや設計図なんて。

新年の抱負はまた改めて。ことしもよろしくお願いします。
ダーウィンは、冷徹なまでに論理的な人でした。
ある時、彼はその頭脳を駆使して、「結婚の損得表」を作成しました。
その結果、結婚によって失う「自由時間」「思索の時間」などを考えれば、
結婚というものは自分の人生にとって損失の方が多い、と結論づけました。
この損得表に従い、自分は一生思索と研究の道をひとり進もうと。

しかし数年後、彼はその「結婚の損得表」を破棄します。
そう、彼は恋に落ちたのです。
ダーウィンは結婚し、子供に恵まれ、幸せな家庭を築きます。

と、ここまではよくある話です。

ダーウィンが非凡なのはここからです。
当時、「進化論」の論文を書いていた彼は、
自分がやすやすと持論を曲げて恋に落ち、
結婚してしまったことに、深い「疑念」を持ちます。

理論的には、「個体」として考えた場合に、
結婚にはプラスよりマイナスの方が多い。
その考察は間違っていない、とダーウィンは考えました。
しかしながら、人は理論的には損失をもたらすような行為、
「結婚」つまり「愛」を自ら選び取る。

「クジャクの羽根」と同じだ!と彼は気づきます。

クジャクのオスがもつ優雅な羽根は、生存上の「損得」からいえば、
明らかに「損」です。重いし、動きづらいし、外敵から逃げにくい。
しかし、クジャクの羽根は、何世代かを経て、
より豪華に、より優美に進化してきた。それは、なぜか。

それは、クジャクのオスが、メスをひきつけるためなのではないか。
大きく美しい羽根でメスを誘惑し、より多くの子孫を残すための、
いわゆる「性淘汰」としての進化だったのではないか。

同様に、高度に脳を発達させ、理論的な推論を出来るようになった「人類」が、
より多くの子孫を残すためには、「結婚は理論的には損失をもたらす」という
「理性」を、破棄させる必要があったのではないか。
そうして、進化の過程で人類が身につけたのが、「愛という狂気」なのではないか。

「愛」は、そのすさまじい「狂気」の破壊力で、「理性」を打ち破り、
「理論的には損失をもたらすかも知れないが、進化のためには必要なもの」として、
「性淘汰」としての進化の過程で、人類に与えられたものなのではないか。
「愛」は、「クジャクの飛べない翼」なのではないか。

…というようなことが、この本に載っていて。

すごくこの「ダーウィンの性淘汰の理論」に今ハマっています。

この本を読み終えた後、いまは、
ジェフリー・ミラーの「恋人選びの心」に移行中。
これも、ダーウィンの理論を受けての「進化心理学」の名著で、示唆に富んでいます。
まもなく読み終わるので、そうしたら原典であるダーウィンの
「人類の進化と性淘汰」を読もうと思ってます。

ここから新しいアイデアが生まれそうな気がしていて、
なんだかわくわくしています。
そんな感じで、ぼくの2011年は、
ダーウィンで締めくくられようとしています。





5月18日の日記

2011年5月18日 読書
「時間などというものはなく、ただ現在があるにすぎない」
最近ずっと頭から離れない考え方が、この本の中にも記されていた。
ヘンリー・ミラーが「南回帰線」を書いたのは、今のぼくと同じ年。
今この本を読んでいることに、何かの意味があるのかも知れない。
(意味はないんだよ。この世界が存在することに意味がないように。)

「南回帰線」にはまた、エックハルトの言葉も引用されていた。
「私には確かに神が必要だ、だが神もまた私を必要としている」
…カッコいい。

上がったり下がったりのこの気分を何とかしたい。
きのうまでは天高くまで上がっていたのに、いまは底まで沈みきっている。
大丈夫、病気じゃないから。このところ毎日こうだから。
仕事は出来てるし(たぶん)、人ともうまく話せてるから(きっと…)。

おそらく、ぼくは強欲すぎるんだと思う。
誤解を恐れずに言えば、ぼくは苛立ってる。
自分の才能のほんの一部しか使われていないことに。
大部分は顧みられてすらいないことに。
それを自覚しながら、何もせず、ただただ年日を重ねてゆくことに。
すべてを手にすることができないことに。
モラルに殉じる生き方をしよう、と思いながら、
気がつけば正反対の生き方をしてしまっていることに。
神に近づこうとして、その実どんどん神から遠くなっていることに。
ぼくの傷はすべて、ぼくが誰かにつけたものと同じだ、
こんな痛みをぼくは自分を愛してくれた人たちに強いてきた、
だからぼくは、あのサソリと同じように、神に向かって祈らなければならない。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。
 こんなにむなしく命をすてず
 どうかこの次には
 まことのみんなの幸(さいわい)のために
 私のからだをおつかい下さい。」

ああ、何て空しいんだろう、
言葉だけの祈りは。
ぼくは快楽を捨てられない。
ぼくの身体は、自らの快楽のためだけ、に使われる。
みんなの幸せのためであっても、痛みの中で生きることは出来ない。

ねえ、どこへ向かってる?
どんどんスピードが上がってる気がするよ。

成長しない…

2011年5月15日 読書
電車の中で「エックハルト説教集」だの「神の慰めの書」だの真剣に読みふけっているぼくは、明らかに怪しい人間だと思います。しかしクリスマスでもないのに何でこんなにも真剣に「神についての言葉」を探しているのかとつらつら考えてみるにその答えは簡単で、要するにぼくが「言葉」の中に「救い」を求めているからということ以外何でもなくて、「言葉では真実は語れない」と言うことを日々実感して生活しているぼくが何でまたこんなにも安易に言葉に救いを求めてしまうのかと言うと、これまた答えは簡単でぼくがとても弱ってしまっているからで、おいおいしっかりしろよ自分!とも思うのですが、いつの頃からだろう、ぼくの心の中には大きな空白があるということを自分でも自覚し、その穴を埋めるべく恋愛だったりSEXだったり仕事だったりボランティアだったり様々なことを試みてきたのですが心の空白は埋めがたく、そうだいずれ大人になって世間と折り合いがつけばこの空白は埋まるかまたは空白のことを忘れてしまうか出来るのだろうと何となく放置したまま過ごしてきたのですが、気がつけばその空白は年を追うごとにどんどん大きく埋めがたくなっていることに気づき慄然とするのです。いつかこの空白は埋まるのだろうか。それとも忘れてしまえるのだろうか。空白を絶望と言い換えた時、人は死を考えるのでしょうが、幸いぼくには空白と絶望は違うもののように感じられるので死ぬことはないでしょう。そんなわけで、エックハルトの
「すべてのわざは神に近づくためだけになされるべきである」
という言葉に、少し癒されたりしている毎日です。でもまあ80パーセントはちんぷんかんぷんで読み飛ばしてしまっているのですが。





…っていう、2005年1月に書いた日記が出てきたのですが、
6年経って、まったく同じことをしている自分が笑えてきます。
どんだけ成長してないんだ…。



書物依存

2011年4月30日 読書
最近ジュンク堂でしか本を買わないのですが、
逆にいろんな本があるので買いすぎてしまいます。
以下はことしジュンク堂で買った本リスト。

「アライバル」ショーン・タン(河出書房新社)
「思考する言語 上 中 下」スティーブン・ピンカー(日本放送出版協会)
「神の痛みの神学」北森嘉蔵(教文館)
「かかわり方のまなび方」西村佳哲(筑摩書房)
「私たちはいまどこにいるのか」小熊英二(毎日新聞社)
「創作の魔術師トニ・モリスン 」奥野みち子(大阪公立大学共同出版会)
「地図で読む戦争の時代」今尾恵介(白水社)
「イノセント・ガールズ」山崎まどか(アスペクト)
「服従の心理」スタンレー・ミルグラム(河出書房新社)
「民主主義は、いま? 」ジョルジョ・アガンベン(以文社)
「エロティック・ジャポン」アニエス・ジアール(河出書房新社)
「日本語が亡びるとき」水村美苗(筑摩書房)
「思考としての歴史と行動としての歴史」ベネデット・クローチェ(未来社)
「ほとんど記憶のない女」リディア・デイヴィス(白水社)
「すべてはどのように終わるのか」クリス・インピー(早川書房)
「貧困の終焉」ジェフリー・サックス(早川書房)
「プライスレス」ウィリアム・パウンドストーン(青土社)
「光の子と闇の子」R・ニーバー(聖学院大学出版)
「文明が衰亡するとき」高坂正尭(新潮社)
「日本語と時間」藤井貞和(岩波書店)
「知覚のなかの行為」アルヴァ・ノエ(春秋社)
「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」ウラジーミル・ナボコフ(講談社)

読了できたのは半分にも満たないのですが、
手元に置いてないと落ち着かなくて…。
引っ越しても「本」だけは手放せないと思います。
これも一種の「依存」なのでしょう。


流れよわが涙、

2011年4月23日 読書
と警官は言った 、表紙変わった!
前の方がよかったな…。
この本、時々読みたくなる。
いまいるこの世界が、アリスの作り上げた
「別の座標軸」だったらいいのに、と思う。
でも、目覚めてすべてを失うのは嫌だな…。

しかし、昼間会社で自信満々にふるまう自分と、
夜ぐだぐだになって暗い部屋で本を読んでる自分と、
そのギャップに時々自分でついていけなくなる。
でも、どっちも自分だ。認めるしかない。
ただ、強いふりは疲れる。優しいふりは後ろめたい。
「ふり」はやめたいな。でも、「本当の自分」なんて誰が認めてくれる?

「愛すれば愛するほど人は弱くなる。そんなヤツいらない」
なんかのドラマの台詞だったけど、心に残っている。

「マジすか学園2」相変わらず面白い。

あと「スコット・ピルグリム」面白そう!





長田弘さんのいう通りだと思う。

一体、ニュースと呼ばれる日々の破片が、
わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。
あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。
うつくしいものをうつくしいと言おう
幼い猫と遊ぶ一刻はうつくしいと。
シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。
何ひとつ、永遠なんてなく、いつか
すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと

地震で目が覚めた、11時19分。
しかし揺れましたね…。
揺れるというか突き上げてくる感じだった。

テレビ見ながら仕事してたら、「面白い」と感じるものが
地震の前と後で随分変わってしまった気がしてきた。
きょういちばん心に残ったのは、NHKで地震のニュースのあと
やってた、「高校中退を食い止めろ~教師たちの格闘」という
ドキュメンタリーだった。それと逆に、いわゆる「成功者」の
名言とか、楽しげな海外旅行の番組とかにまったく心が動かない。
マイケル・サンデルの言葉もなんだか全然響いてこない…。
これって何なんだろう。
サルトルの「地獄とは他人のことだ」ってこういうことなのかな。
違うか。

常に携帯してるスケジュール帳(無印良品のノートをカスタマイズしたヤツ)に
ニーバーの祈りをコピーして貼りました。

O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

神よ、
変えるべきものを変えるだけの勇気を、
変えられないものを受けいれられる冷静さを、
そして、そのふたつを識別できる知恵を、
私たちに与えて下さい。

このフレーズは、地震の前も、後も、変わらずにぐっと来ます。



歯ブラシ買わなきゃ。

ふがいない僕は

2011年4月14日 読書
世界なんて、結局は気持ち次第だ。
きのうまでは闇の中だった。
きょうは少しだけ日が差した気がする。
ほんの少しだけ。

孤独は本当に人間を強くするのだろうか。
孤独と引き換えに得られる強さなんて、
本当に必要なものなのだろうか。
弱くても、だらしなくても、
人は生きてゆかなくてはならない。
けれどせめて、溝の中に蓮の花を咲かせたい、
一輪だけでも。

本屋大賞とった本より僅差で2位だった
この本の方が気になります。
「ふがいない僕は空を見た」

あまりにも多くの悲しみの中で見失いがちだけど、
結局ひとりひとりが乗り越えてゆくしかない。
ジェニファー・ハドソンのように。

ようやく少しずつ、企画書が書けるようになりました。
地震のあと、しばらくは、一行も書けなかった。
一行も。

結局は狂気だけが心を駆動させてくれる。
ただ思うのは、狂気にも、いい狂気と悪い狂気があるね。
プラトンが言うとおりだ。










きょうはある障害を持つ方々の会合に出てきました。
とても心動かされました。
何か自分に出来ることを、と考えました。
かたちにしたいと思いました。

帰り道、それとは別の、
いま考えている企画のヒントになりそうな本を買いました。
それがこの本です。

でも、集中できない。

きのう読んだ記事が、あたまから離れない。

http://blog.goo.ne.jp/flower-wing

「日常」をこなさなければ、日々の糧は得られない。
けれど、このこと以上に考えるべきことが今あるんだろうか。





なくなってしまった…。
日本には略奪がないって、大手新聞がこぞって自慢げに書き立ててたけど、こういうのって略奪よりかえってたちが悪いんじゃないだろうか。富める者による略奪。資本主義社会のルールを破っていないぶん、却って。

何だかもういろんなことがぐちゃぐちゃです。気持ちの整理のためにこの本を読んでます。ソクラテス、カッコいい…。

1日締め切りを延ばしてもらって出した企画書がどれもこれも中途半端で、読み返してみたらまるで新人が書いたみたいだった。あ、でも逆にいいじゃん、と思えた。赤ちゃんからやり直す気持ちでやり直そう。大丈夫、全然書けてない分、「伸びしろ」がある。


全然書けない。
明日が締め切りなのに、一行も書けない。
大体自分の中に何のアイデアもない。
アイデアの種すらないんだから、発芽しようもない。

随分前に読んだこの本に、
「すべての人は昇進を重ね、おのおのの無能レベルに到達する」
って書いてあったけど、どこか他人事だった、
ここへ来てああ、これがそうか、と思う。
「無能状態」。

ダメなクリエイターがなぜダメなのかというと、
自分のダメさを自覚していないから。
じゃあ、ぼくのように自分のダメさを自覚したクリエイターは
これから一体どうすればいいのだろう。

①必死で頑張って無能状態から脱却する
②現状に甘んじて本格的無能に突入
③無能を自覚せずにすむところに逃げる

どうしよう。
頑張れるかなぁ…。
甘いことを言ってるって自覚してるけど、今は頑張れる気がしない。

疲れた…。







たまらない、地震のあとずっと。
亀井堂のクリームパンとか、ワインリッヒのフルーツチョコレートとか、
体が甘いものを求めてやみません。
読書にもその傾向が。
大学卒業して以来はじめてレイ・ブラッドベリが読みたくなりました。
甘すぎる気がしてずっと読んでなかったんだけど。
久しぶりに読んだ印象は…思ったより甘くなかった。
センチメンタルではあるけれど、甘ったるくはない。
シチュエーション的には甘ったるそうな「生涯に一度の夜」にしても
ヘミングウエイの「白い象に似た山並み」に似た無常観を感じる。
読む側のぼくが年をとったってことだろうか…。

東京1週間後

2011年3月18日 読書
・よく行く近所の洋食屋「ピエトロ」に行ったら、先週までいっぱいいた中国人の店員さんがひとりもいなくなってた…。ほとんど国に帰ってしまったそうです。

・ラーメン花月の「純豆腐ラーメン」がすごく気になってます。美味しいんだろうか…。食べてみたい。というふうに、気がつくと食べることばかり考えています。ストレスなんだろうか。

・「地震酔い」って症状の人たちもいるようですね。いっつも揺れてるみたく感じるという。ウチの上司がそれで、しょちゅう「あ~また揺れてる」って言ってます。

・日本中がストレスをため込んでる気がする。きょう通勤途中、中学生たちが意味もなく全力疾走して鬼ごっこしてた、これもある種のストレスなんだろうな。はやくおさまらないかな、余震、そして原発…。

・節電も兼ねてなるべくPCはつけず、一日一冊本を読むことにしました。いまはこの本を読んでます。面白い。そういえばレビューも随分書いてない。大体レビューってどうやって書くんだっけ。

・実は企画書でも同じことが起きていて。マネージメントばっかやってるうちに企画書の書き方を忘れてしまいました。昔はそれこそ「木の中に仏が埋まってる、それを掘り返すだけ」みたいな感じですらすら書きすすめられたのに、いまは一行も書けない。何を書いても「前に書いた企画書」になっちゃう…。でも、大体「まだ書かれてない企画書」なんてあるんだろうか。

・あ、そうか。この本に書かれているのは、そういうことです。「まだ描かれていないもの」を描くため、「いままでになかった表現」をするために、いかにアーティストたちが勝ち目のない消耗戦を戦い続けてきたか、ということが、とてもわかりやすく、体系的に描かれています。特にアンディ・ウオーホールと蔡國強のエピソードのところは個人的に勇気湧いてきました。いいんだ、この立ち位置で!って。

・レビューになってますでしょうか…。

・ここよかった、2ちゃんねるっぽくて。
 http://mamesoku.com/archives/2426297.html?ignore_lite
何だか疲れた(最近コレばっか)ので
仕事に関係ない本を読もうと思って
この本を読み始めたんだけど、途中から
コレってもしかしたら…とか思ってしまって、
全然リラックスできなかった…。
もうこうなると「業」に近いかも。
勝ちたい。勝ち続けたい。
それでどこに行けるのかわからないけれど。


「いま」を切り取っておきたいと思ったのは、
たぶん「いま」が幸せだったからで、
そしてずっと上の方にいるもうひとりの自分は、
こんな幸せがずっと続くはずはないとわかっていた。
でも、よく考えてみれば、
「いま」の幸せに酔いしれていたはずの自分も、
この瞬間がいつか終わることをわかっていた。
いったいどこまで絶望的だったんだろう。

でも、切り取っておいてよかった。
それがなかったら、
今こうやって生きていられなかったかも知れない。


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