きょうの日経新聞夕刊によれば、アニメやファンタジーと言ったいわゆる「ポップカルチャー」が、震災を機に変わりつつあるという。記事によれば、「現実の惨禍を前にアニメは無力」であり、「人々の関心が現実にある」以上、作り手もその影響を受けざるをえず、現実を反映したテーマ性の強い作品に移行せざるを得ない、という。記事は見出しでそれを「逃避の終わり」と記している。
でも、本当にそうか?
我々はいま、「震災の後」という、いわば「ダークファンタジー」のさ中にいる。それは、あくまでもカギカッコつきの「現実」でしかない。でも、いずれ、圧倒的な現実が襲ってくる。テレビカメラがやってこない被災地。見えない放射能との、果てしなく続く戦い。そんな時、「逃避」の場を持たずに我々は生きていけるだろうか?
ぼくらに必要なのは、今以上に造り込まれた「逃避の場」なのではないだろうか。
物語の中だけで人は生きていけない。いずれ現実に還らねばならない。だからこそ、つかの間の「逃避」の場が必要なんだと思う。がれきだらけの現実を、きらきらした宝の山に変える、「逃避」の物語が。何千年も、人はそうやって生きてきたんだと思う。だって、この震災だけが、人々に訪れた苦難では決してないのだから。
「物語」の時代がきっと来る。ずっと、忘れ去られていたような、「物語の時代」が。みんなを遠くに連れ去ることが出来る、逃避の物語の時代が。
でも、本当にそうか?
我々はいま、「震災の後」という、いわば「ダークファンタジー」のさ中にいる。それは、あくまでもカギカッコつきの「現実」でしかない。でも、いずれ、圧倒的な現実が襲ってくる。テレビカメラがやってこない被災地。見えない放射能との、果てしなく続く戦い。そんな時、「逃避」の場を持たずに我々は生きていけるだろうか?
ぼくらに必要なのは、今以上に造り込まれた「逃避の場」なのではないだろうか。
物語の中だけで人は生きていけない。いずれ現実に還らねばならない。だからこそ、つかの間の「逃避」の場が必要なんだと思う。がれきだらけの現実を、きらきらした宝の山に変える、「逃避」の物語が。何千年も、人はそうやって生きてきたんだと思う。だって、この震災だけが、人々に訪れた苦難では決してないのだから。
「物語」の時代がきっと来る。ずっと、忘れ去られていたような、「物語の時代」が。みんなを遠くに連れ去ることが出来る、逃避の物語の時代が。
コメント
『果てしない物語』(原作版のほう!)の世界観ですね……(^^;)”
(自分は「物語作家を目指している」人間なので、今回の被曝体験は、非常に、重いです……★<でも、『指輪物語』も『ナルニア』も、大戦体験がなければ、編み出されなかった物語だし!)みたいな……★