電車の中で「エックハルト説教集」だの「神の慰めの書」だの真剣に読みふけっているぼくは、明らかに怪しい人間だと思います。しかしクリスマスでもないのに何でこんなにも真剣に「神についての言葉」を探しているのかとつらつら考えてみるにその答えは簡単で、要するにぼくが「言葉」の中に「救い」を求めているからということ以外何でもなくて、「言葉では真実は語れない」と言うことを日々実感して生活しているぼくが何でまたこんなにも安易に言葉に救いを求めてしまうのかと言うと、これまた答えは簡単でぼくがとても弱ってしまっているからで、おいおいしっかりしろよ自分!とも思うのですが、いつの頃からだろう、ぼくの心の中には大きな空白があるということを自分でも自覚し、その穴を埋めるべく恋愛だったりSEXだったり仕事だったりボランティアだったり様々なことを試みてきたのですが心の空白は埋めがたく、そうだいずれ大人になって世間と折り合いがつけばこの空白は埋まるかまたは空白のことを忘れてしまうか出来るのだろうと何となく放置したまま過ごしてきたのですが、気がつけばその空白は年を追うごとにどんどん大きく埋めがたくなっていることに気づき慄然とするのです。いつかこの空白は埋まるのだろうか。それとも忘れてしまえるのだろうか。空白を絶望と言い換えた時、人は死を考えるのでしょうが、幸いぼくには空白と絶望は違うもののように感じられるので死ぬことはないでしょう。そんなわけで、エックハルトの
「すべてのわざは神に近づくためだけになされるべきである」
という言葉に、少し癒されたりしている毎日です。でもまあ80パーセントはちんぷんかんぷんで読み飛ばしてしまっているのですが。
…っていう、2005年1月に書いた日記が出てきたのですが、
6年経って、まったく同じことをしている自分が笑えてきます。
どんだけ成長してないんだ…。
「すべてのわざは神に近づくためだけになされるべきである」
という言葉に、少し癒されたりしている毎日です。でもまあ80パーセントはちんぷんかんぷんで読み飛ばしてしまっているのですが。
…っていう、2005年1月に書いた日記が出てきたのですが、
6年経って、まったく同じことをしている自分が笑えてきます。
どんだけ成長してないんだ…。
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