自分が古くなっているのではないかという不安に苛まれている。
先輩たちがそうであったように、古くなった人たちは、
自分がもはや古くなってしまったということに気がつかない。
けれど、受け取る側は敏感に気づいている。
文体が、形式が、世界観が、すべてが古くなっていることに。
古くなることはいけないことだろうか。
もし古くなっていることを自覚し、そのうえで、
古くなってゆく側、古いものを求める側に立とうとするならば、
それはひとつの生き方として立派だと思う。
けれどもし、自分が古くなっていることを自覚していないとしたら、
それはたぶん、ふたつの意味でいけないことなんだと思う。
ひとつは、対象が見えていない、という点で。
古くなることで、対象はどんどん狭くなる。
きのうばかり振り返っている人には、古い表現が心地よく思えても、
今しか見えてない人たちには、古い表現は響かない。
新しく来る人たちに響かない表現は、やがて価値を失ってゆく。
もうひとつは、「本物」ではなかった、という点で。
本物は古くならない。
漱石の「坊ちゃん」も、プラトンの「饗宴」も、
いま読んでも全然古くない。
坊ちゃんなんか半沢直樹だし、饗宴なんてデスノートだし。
キアロスタミの「友だちの家はどこ」が、
「あまちゃん」に大きな影響を与えたように、
「古くならない」表現は、新しい表現に命の息吹をもたらすことが出来る。
ああ、古くなりたくないな。
古くなっていたくないな。
いつまでも、どこか懐かしく、けれど今まで見たことのない、
そんな表現を志向してゆきたい。
届かないうちに古くなってしまいたくはない。
もっとがんばらなきゃ。
先輩たちがそうであったように、古くなった人たちは、
自分がもはや古くなってしまったということに気がつかない。
けれど、受け取る側は敏感に気づいている。
文体が、形式が、世界観が、すべてが古くなっていることに。
古くなることはいけないことだろうか。
もし古くなっていることを自覚し、そのうえで、
古くなってゆく側、古いものを求める側に立とうとするならば、
それはひとつの生き方として立派だと思う。
けれどもし、自分が古くなっていることを自覚していないとしたら、
それはたぶん、ふたつの意味でいけないことなんだと思う。
ひとつは、対象が見えていない、という点で。
古くなることで、対象はどんどん狭くなる。
きのうばかり振り返っている人には、古い表現が心地よく思えても、
今しか見えてない人たちには、古い表現は響かない。
新しく来る人たちに響かない表現は、やがて価値を失ってゆく。
もうひとつは、「本物」ではなかった、という点で。
本物は古くならない。
漱石の「坊ちゃん」も、プラトンの「饗宴」も、
いま読んでも全然古くない。
坊ちゃんなんか半沢直樹だし、饗宴なんてデスノートだし。
キアロスタミの「友だちの家はどこ」が、
「あまちゃん」に大きな影響を与えたように、
「古くならない」表現は、新しい表現に命の息吹をもたらすことが出来る。
ああ、古くなりたくないな。
古くなっていたくないな。
いつまでも、どこか懐かしく、けれど今まで見たことのない、
そんな表現を志向してゆきたい。
届かないうちに古くなってしまいたくはない。
もっとがんばらなきゃ。
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