マッサージに行きました。
ずいぶんほぐれました…。
あと友達に誘われてヨガを始めました。
結構面白い!
次は気功教室行ってみようかな。

2月17日の日記

2012年2月17日 日常
不思議なことに、仕事が忙しくなるにつれ、飢えとか乾きみたいのがぴたりとおさまった。結局は隙間を埋めたかっただけなのかな。

ある建築家の人と仲良くなって、いろいろ話してたら、同じような制作上の悩みを抱えてることがわかって、興味深かった。ジャンプしたいですよね、今の場所から。同じところをただ横に移動してるだけな気がするんですよ。違う場所に行きたいんです。それも、生活の延長線上にある、違う場所に。ぼくもずっと、同じことを考えてた。たぶんみんな、同じ場所で行き詰ってるんだろうと思う。

東京事変のラストツアーライブに横浜アリーナへ。ファンクラブ抽選でチケットが当たったものの、正直、行こうかどうか迷ってた。今回もがっかりさせられたらどうしよう、また同好会みたいの見せられるんだろうか、とか。でも最後だから、と思って行ったら、素晴らしかった。なんていうか、本気の椎名林檎を久しぶりに見た。何だろう、あのオーラ。もしかしたらオーラって、観客と対象の共犯関係で成立する「共同幻想」なんじゃないか、って最近疑い始めてたんだけど、間違いだってことに気づいた。絶対的に光を放つものって、本当に存在する。

あとは「ヒミズ」を見ました。書いたっけ?反芻すればするほど、二階堂ふみが素晴らしかった映画だった。たぶんぼくは、まっすぐ光を放つものが好きなんだと思う。

随分と自分を取り戻せてきました。自信満々にふるまえる。もう大丈夫。たぶん。

2月11日の日記

2012年2月11日 日常
ぼやぼやしてたら仕事がおろそかになってたので、今週は仕事三昧でした。結構取り戻せたと思う。ただ、新しいことは出来てないかも。週末きちんと考えよう、新しい企画。気がついたらもう2月も半ばになろうとしてるというのに、どうも去年までの貯金で食べてる感が拭えない…。

ただ、いろんなことが早くなったとは思う。処理のスピードとか、判断とか。仕事始めた時はこんなんでお金もらう資格があるのかどうか真剣に悩んだけど、いまは多少は貢献出来てる気がする…。あとはどうやって自分自身の時間を作り出すか、だな。

ヘンリー・ミラーがアナイス・ニンを必要としたように、ピカソが多くのミューズを必要としたように、男というものは、女性が見ていてくれなければ何も出来ないんだろうか。そうじゃない人もいるよね、きっと。そうじゃない人になりたい。

2月6日の日記

2012年2月6日 日常
この本を読んでて。
世界は、断片の集積だってことに改めて気がついた。
ひとつひとつの断片をどう積み重ねるか。
その作業が、世界を豊かにも、貧しくもする、ということに。

2月4日の日記

2012年2月4日 日常
相変わらず上がったり下がったりの日々。でも周りにはそう見えてないんだろうなぁ…。

ここ数年、生活の中心を「企画書を書くこと」に置いていて、そこだけにシリアスだったら、あとはどんなに不真面目でもいいんじゃないか、と思ってきたけれど、もう無理だな、という気がここのところずっとしていて。たぶんそれがいまの上がったり下がったりの原因ではないかと思います。先日書いた企画書も、面白いとは思うんだけど、なんか小手先なんだよな…。シリアスに詰められてない。

この前、会社に入ってから通した企画を数えたら50本くらいあって、もういいんじゃないか、と思ってる自分がいて。シリアスになる対象をそろそろ変えてみたい、というのが素直なところです。一度離れて見ればまた見えることもあるだろうし。40でいろいろなものを失ってから、仕事にのめりこんできたけど、ちょっと俯瞰の目で物事を見てみたい。もちろん、やることはやりますが。

先日、トラブル処理で日帰りで奈良に出張して、無事解決したので東大寺ミュージアムに立ち寄ったんですが、日光・月光がとにかくスゴかった…。これが1000年以上前に作られただなんて、どういうこと?って、思わず茫然と立ち尽くしてたら、修学旅行の中学生たちも同じように呆然と見つめていて。

たぶん、何の知識もなくても、「コレは他のモノと全然違う!」ってことはわかるんだな、って思った。「絶対的にスゴイもの」って存在するんだな、って。ぼくはこれまで、そうスゴくないものを、スゴく見せることに腐心してきたけれど、これからはそうじゃなくって、誰からも見過ごされることのない、絶対的な「何か」を持ったもの、そういうものを作らなきゃ、作れなくても志向しなきゃいけない気がする。

このところずっと「コレラの時代の愛」を読んでました。面白かった。読み終わるのが勿体ないくらい。ストーリー展開もさることながら、細かな描写もすばらしくて、あと、魅力的なフレーズの宝庫でした。
「言葉というものは、何かを売ろうとすれば覚えなければならないけれど、何かを買う場合には何を言っても通じるものなのよ」とか、
「私は金持ちじゃない、金のある貧乏人なんだか、この二つはまったく別物だよ」とか、
「人間はセックスする人間とそうでない人間の二種類に分けられる」とか。
さらにスゴイのは、こういうフレーズが、独立したものではなくて、きちんと物語のキーになってること。めっちゃ緻密です。

一方で、こうも思います。絶対的な幸福も絶対的な不幸もない。あるのは小さな小さな「いま」だけです。でも、その小さな小さな「いま」を積み重ねることでしか、「絶対」に近づくことは出来ない。そのことを忘れてはいけない。いまの脆さ、儚さに絶望してはならない。

やっと雨が降りましたね。

「永遠の僕たち」を見る。
切なくて、いい映画だった。
デニス・ホッパーの息子さんがよかった。
ナイーブで。

映画を見ていて、思い出したことがある。

ある時、好きな女の子と眠っていたら、夜中に声が聞こえた。
「あたしはもうすぐいなくなるけど、しっかりしていられる?」

うん、と答えて、それで目が覚めた。
腕の中にいる彼女を見て、ああ、夢でよかった、そう思った。

でも、今はわかる。
あれは、夢じゃなかった。

1月17日の日記

2012年1月17日 日常
気づいたこと。

①結局ヒマなんだと思う、精神的に。
心に隙間があるからどうにもならないことをいろいろ考えてしまうんだろう。
どうにもならないことは、考えても仕方ない。
時間の無駄だからやめよう。
それよりも、もっと他に考えるべきことがあるはず。

②ひとりがデフォルトなんだ、ってことをきちんと認識しよう。
もしかしたら必要以上にひとりでいることを恐れていたのかも知れない。
そんな必要はないのに。
ひとりでいる時間をもっと有効に使おう。
何かがやってくるのを待つのではなく。
セレンディピティを期待するのもやめよう。
とにかく、やり切ろう。

人はいつ大人になるんだろう。
ずっとこのままなのかな。

1月16日の日記

2012年1月16日 音楽
知人の結婚パーティに出席。
すごくいいパーティーだった。
みんなが祝福して、みんなが幸福そうで。
途中、新婦の友人のミュージシャンが
「BE LOVED」を歌った。
ぼくはGLAYとか全然聴かなかったので
ほとんど初めて聴いたんだけど、
めちゃくちゃいい曲で、
思わず泣いてしまいました。

他人の結婚パーティで泣く男ってどうなの。
恥ずかしかった。
ちょっと感情の浮き沈みが激しすぎて、
いよいよ自分ではコントロール出来なくなってきたかも…。

しかしBE LOVED 、すごくよく練られたいい曲だと思います。
GLAY版はピンとこなかったのですが、JUJUのはすごくいい。泣ける。
さっきから仕事のBGMにリピート中です。


結局、最大の問題は、自分の制作スタイルにあることに気づく。
①テンションの低い状態でアイデアを集積させる
②テンションの高い状態でアイデアを発散させる
で、日頃のぼくは①の状態が7、②の状態が3くらいだったんだけど、どうも去年の地震からあとは、①の状態が9、②の状態が1くらいな感じになっている。たぶん、病院とか行っちゃうとフツーに「鬱です」とか言われちゃうような。でも鬱、って言われても何のメリットもないので行きませんが。

ただ、①を②に持ってくのが、どんどん出来にくくなってたことは確かで、去年は本当に、自力では何もできなかった。誰か他の人の支えがなければ。ただそれって、②を作り出すために誰かの存在を利用する、ってことで、そんなんに巻き込まれる他人もたまったもんじゃないだろうし、ぼくがその「対象」だったら絶対イヤなのでもうやめようと思います。ミューズは手洗いだけに使おうよ、と。

で、今年に入って、誰とも口をきかない正月を過ごして、改めて「自分の力で②を作り出すこと」の重要性を切実に感じ、昔付き合ってた女の子に聞いた(←この時点で自力とは言い難いですが)「口角をあげると脳は楽しいと勘違いして本当に楽しくなってくる」を実践したりしてたのですが、たまたま本屋でこの「アーティストのためのハンドブック~制作につきまとう不安との付き合い方」を読んでたら、めちゃくちゃテンションが上がってきました!フツーの自己啓発本とかビジネス書とは違って、ものを作る心構えについて、すごく具体的に、かつ説得力のある書き方で書かれている。あと、こういう本には珍しく、情報量が多くて、いい意味でなかなか読み進められないのが魅力的です。

ある美大の授業で、あるチームには作品の量にこだわって、あるチームには質にこだわって制作をさせたところ、評価の高かった作品は、すべて「量にこだわって制作したチーム」から出た、という話はすごく示唆的でした。本の中で、アンセル・アダムスは同じことを「完璧であることは、よいことの敵である」と表現しています。もしも画面の中のすべてが完璧になることを待っていたら、自分は一枚の写真も撮れなかった、と。完璧を志向するといつかは作ることをやめてしまう。だから、完璧なものではなく、自分にとっての「よいもの」を志向しなさい、と。
…アガりました。

ホントは「村上龍映画小説集」が読みたかったんですが見つからなくて。この本もぼくにとっての「アガる本」なので何冊か持っていたんですが、いつも人にあげてしまっていつの間にかなくなってしまっていて…。そういう「アガる本」とか「アガる曲」とかで、ことしは自力で②の状態を作り出したと思います。できたら①:②≒6:4くらいに持っていきたい。がんばります。

1月13日の日記

2012年1月13日 TV
「家政婦のミタ」を見返していて思ったんだけど、いまどき視聴率40パーセントをとるコンテンツにはたぶん集合無意識を揺るがすほどの大きな「力」が秘められていたはずで、ミタのその「力」というのは、もしかしたら、日本で(ほぼ)初めて、「母の不在」を描くことに成功した、というところにあるのではないか、と思った。

さっき読み終えたブローティガンの「バビロンを夢見て」もそうだけど、物語で描かれる家族はたいていどこかが「失われて」いる。それは「誰か」だったり「関係そのもの」だったりするけれど、最も多く描かれてきたのは「父の不在の物語」だったと思う。

日本文学の歴史は「父(の不在)を描くことの歴史」だった気がするし、「バビロン」もそうだけど、アメリカ文学だって繰り返しその主題を描いてきた、でも、「ミタ」は、どんな小説も描き切れなかった「母の不在」を描き切った。

「夫が愛してくれなかったから自殺した」という「母」は、「実在」としても失われているし、また、「概念」としても失われている。「ミタ」は最初から最後まで、母を「なきもの」として扱う。そして最後の最後まで、「ミタ」は母の代役を引き受けようとはしない。なぜなら、「母」は幻影に過ぎないから。我々はこれからみんな、「母」のいない時代を生きなければならないのだから。

おそらく、このドラマを見るまでにも、誰もがどこかでうすうす感じていたんだと思う、でも、「ミタ」は、みんながうすうす感じていたことを具現化した。それを一言でいいあらわせば、そしてニーチェが「神は死んだ」という言い方をもじって言えばこうなる。

「母は死んだ」。

「ミタ」というのは、そういうドラマだったと思う。


1月12日の日記

2012年1月12日 読書
去年の1月にぼくはある企画を出してボツになった。でも、さほど思い入れもなかったので、そんなものかな、と思って、落ちたことも忘れていた。で春頃、後輩に何となく、こんな企画を出して落ちたんだよね、って話をしたら後輩が「その企画、ちょっとだけ書き直して連名で出していいですか?」と言うので、いいよ、どうせ落ちた企画だし、なんて言ってたら、あれよあれよと試作品制作、より大がかりなテスト作品作成と進んで、いよいよこの春大々的に世に出ることになった。いい話!…なんだけど、なんか一連のこの感じが、ぼくの最近の体たらくを象徴している気がする。
問題点は3つ。

1)どっかズレてる。でも自分ではどこがズレてるのかわからない。
  たぶん後輩には、それがわかった。だから、矯正することが出来た。
2)どうしてもこの企画を通そう!という気概がない。
  後輩は、企画選定者と何度も飲みに行ったりコミュニケーションを取って、
  ねばり強く企画を成立させていった。ぼくはあっさり捨てた。
3)というようなことに関して、ぼくには何の感情も沸いてこない。
  悔しくもないし、逆にうれしくもない。これは何なんだろう…。

 つきつめてゆくとこれらのマイナス点は、ぼくが自分の感情の振れ幅、特に大きく負に触れた時の自分の感情を、ひとりでコントロールできないということから生じている気がする。なので、気持ちを切り替える意味で、ピーター・ゲイの「官能教育」(みすず書房)を読み始めました。この本は、19世紀ブルジョアジーたちが、いかに「性愛」というものの「正しさ」の概念を革命的に変えていったか、を精神分析学に依拠して読み取ってゆこう、という本らしいので、一度きちんと読んでみたくて。あと楽しそうだし。「メイベル・ドットの奔放な性愛記録の分析から、精神と現実世界が対峙する場としての「無意識」の力を解明する」という帯にも魅かれました。これから読み進めたいと思います。


風邪がおさまってから、毎日飲んでる気がします。
てんでダメだな、こんなんじゃ。
クリエイティブからどんどん遠ざかっている気がする。
ふと気づいたんだけど、ぼくはそんなに頑張っていない。
「費用対効果」のエクスキューズのもと、自分で汗をかかずに、
自分以外の人をどう頑張らせるかに注力してきた気がする。
ネット依存の人は45秒しか集中力が続かないっていうけど、
いまのぼくはそれに近い。意識が一点に集中しない。
あれもこれも手に入れたがって、結局何も背負おうとしてない。
自分の問題点をここに書き連ねても面白くもないのでやめますが、
改めてブローティガンはいいですね。
いま読んでるのは「バビロンを夢見て」って本ですが、
物質主義から遠く離れて、瀟洒ではない、どちらかといえば
貧しいやせ細った言葉が連なっているのに、なんだか知らないけど
ありえないくらい美しい風景が目の前に浮かんできて。
ずるいと思った。死ななくてもよかったのに。
全集とか出ないかな、ってちょっと思いました。絶対買う。詩集も。
でもブローティガンばっか読んでたら社会人としてダメになりそうなので、
これが終わったらマーケティングの本を読もうと思います。
目の前の仕事もひとつひとつ片づけていかなくちゃ。
ここへきて、ようやく仕事ときちんと向き合おうという気になってきました、
ことしも。きょうまではホンっとにやる気が出なくて。
どうしようかと思ってたんですが、明日から頑張ります。
たぶん…。

結局仕事が本格的に始まると同時に、嘘のように体調がよくなりました。便利な体だよな…。しかしヒマになると熱が出て、忙しくなると元気になるって、どんだけ気合で生きてるんだろうか、自分。

パソコンやケータイの画面に向かう気力も出ず、ひとりで横になって、テレビも見ず(居間に一台なので)本も読まずに過ごしている長い時間に、ただただいろんなことを考えました。死に方とか。残りの人生のこととか。細かく言及するとめちゃくちゃプライベートなことになるのでここには書きませんが、ただ、出来る限りすべてのことを、ひとりで背負えるようになっていよう、と思いました。いろんな感情も含めて。

たとえば。ぼくは、恋愛感情も含めた感情の振れ幅を、自分のために、もっといえば自分の仕事のために、利用してきてしまったと思います。その時はそう思ってしたことではなかったかも知れないけれど、結果的に、ぼくはマイナスの振れ幅の時にアイデアを発酵させ、プラスの振れ幅の時にアウトプットさせる、そういうやり方で仕事をしてきてしまった、その感情の振れ幅は主にこの10年近く「恋愛」によって生じていたように思えるのです。だから、ぼくはしばらく、この自分の感情の振れ幅を、外的な刺激からではなく、内発的に、自分だけの力で確信的に作り上げるよう試みてみよう、そんなふうに思ったりしていました。要するに、他人を巻き込まずに、いかにひとりで生きられるかを、これから先のテーマにしようかな、と。

それはさておき。ことしのテーマは、阿部慎之介じゃないけど、「全部自分で背負う」にしようと思います。逃げずに、頼らずに、甘えずに。すごくすごく単純に言えば、「強くなりたい」、ただそれだけのことなんですが。

どうか、みんなに、いい一年が待っていますように。
寝た。とにかく寝た。この4日で起きてたのが12時間あるか、ってくらい寝た。ホントは2日は会社に行くつもりだったんだけど、たぶん体温を測ると数字見て倒れるだろうというくらいの高熱が出てて断念。まあお祝い事だからいいか。昔親に「お祝いは必ずしも行かなくていいけどお悔やみは必ず行きなさい」と言われたし。

年末に、忘年会という名の飲み会の連続、突然のトラブル発生→謝罪(うまくおさまりました!)、次年度に向けた大きな宿題、年内に処理マストの伝票の山、プライベートでの怒涛の展開などが相次いですっかり疲れ切っていたのか、31日に自宅に戻ってさあ一休み、と思っていたら突如めまいが。で、明らかに高熱を発していて、そこからはさっきまでほとんど寝っぱなしの生活でした。ちなみに31日の夜から一歩も外に出ていません!自慢になりませんが…。冷凍食品のおかげで生き延びられました。元加ト吉(今なんて名前か忘れました)のきつねうどん、ホントにおいしゅうございました。あとジャガビーとか。買いだめしておいてよかったです。

今は丈夫だし、4日になったら会社があるから、と思って、気合で風邪も治せるからいいけど、もしリタイアして、からの、こんな年末年始はさすがにつらいんじゃないだろうか…と、自分の生き方をちょっと反省したりしております。悪夢もたくさん見ました。たぶん、一年の厄を3日で落としたんだ、これからことしはいいことばかりに違いない!と考えて、頑張ろうと思います。夜、何食べようかな。お弁当屋さん開いてるだろうからとんかつ弁当でも買いに行こうかな。あ、大戸屋さんがつぶれてとんかつ弁当屋さんが出来たんです!HP見てやってるかどうか確認してみよ。

ずっとこの本を読んでました。すごく具体的で面白かった。手に入れたいものが何かわかっていれば、人はこんなふうに明確な設計図が書けるんだな、と思いました。ぼくにはまだ、自分が本当に欲しいものが何かすら、明確にわかっていない。ましてや設計図なんて。

新年の抱負はまた改めて。ことしもよろしくお願いします。
きょうも会社です。

ホントにいろんなことがあった1年でした。
仕事では、ひとつ壁を越えられたような。
けどプライベートでは、ますます混沌としてきたような。
ただ、ひとりだと思ったことはなかった、気がします。
いろんな方たちに支えられ、何とか1年やってこられました。
ここで出会えた皆さんにも。
ありがとうございました。
また来年もよろしくお願いします。

たぶん来年は、激動の1年になります。
今から心の準備をしておかなくちゃ。

12月21日の日記

2011年12月21日 日常
なんか気がつくと、ことしもあと10日とかですか?
早すぎるよね…っていうか、やり残したことが多すぎる。
会いたい人にも会えてないし、仕事もあれこれ残してるし。
来年はもっと忙しくなりそうだから、その前に
いろいろ準備しておきたかったんだけど
全然「未来」のことまで気持ちが向かない。
だって目の前の仕事が全然片付かないんだもの。

1月に仕事でニューヨーク行くつもりだったんだけど、
そんなことできる状況じゃない気が…。
ああ、いろんなことが定まらない。
っていうかこのままだと、
クリスマスも正月もなく仕事してそうな気配です。
次のとこに行くべく力をためたかったのに、
結局同じ場所をぐるぐる回っている気がする。

あと10日で何が出来るだろう。
人生が終わる時もこんな気持ちになるのかな。
やり切った!って思って一年を終われることってあるんだろうか…。
あ、あしたは7時に起きなきゃ。寝ます。



少し前に、飛行機の中で、Un amour de jeunesse っていう映画を見て。
ストーリー自体はどうってことのない、フランス人ってホントにロリコンなんだな、って話ですが、
主演してたLola Cretonって女優さんがやたら魅力的で、ハマってしまいました。
http://www.youtube.com/watch?v=An8hpuOcaVo
この映画、日本では公開されないみたいですね。
Lola Creton、売り方によっては絶対日本でも人気が出ると思うんですが。
まだ18歳らしいから、これからかな。

しかし18歳って、AKBのまゆゆとあんまり変わらない…。
それを考えると、日本人って世界一のロリコンなんじゃないかと思います。

あ、この映画見て、フランス人もそうなんだ、って思ったのが、ひとまわり以上下の女の子でも、
付き合うとそれまでの敬語から自然にタメ口になってゆくんですよね。
で、男はそれがうれしかったりする。これって世界共通なんだな、と思いました。不思議です。


12月17日の日記

2011年12月17日 日常
仕事の感想を言ってもらったのはうれしかったんだけど、
「XXXが○○○するとこ、きゅんとしました!」
って言われて、
「ありがとう…」
といいながら心の中で、

(いやいや、いい年したオッサンが“きゅんとした”はないだろ!
 大体80キロ以上ある中年男が“きゅん”とかって音を立てるのは
 子供が飼ってたハムスター、誤って踏みつぶした時くらいだろ!
 男は“ぐっときました!”だろ!言い直せ!まったく…キモいよ!)

と、思ってしまっていた自分は、心が狭すぎるかも知れません…。

ああ、年の瀬最大の活況を呈してるこんな日に家で企画書打ってる自分よ…。

でも、飲みに誘った友だち(男)からもらったメールに
「24日なら空いてます!」
ってすごくさわやかに書いてあって、ちょっと癒されました。

うん、ぼくも空いてる…。

12月16日の日記

2011年12月16日 日常
そろそろ1年振り返りモード。

毎年、年の初めに新年の抱負のようなものを持つのだけれど、ことしはいったいどんなことを考えたっけ…と思って日記を読み返したら、「何の抱負も持てない1年」だと書いてあった…。

これも全然覚えてなかったんだけど、「光の子と闇の子」の中に答えがあるような気がする、とも書いてあって。そういえばそのあとすぐこのフレーズが見つかって、ノートに書き留めたんだった。

光の子らは、闇の子らの狂暴のとりことなってはならないが、闇の子らの智慧で自らを武装しなくてはならない。光の子らは、人間社会に於ける自己本位の力を道徳的に是認してはならないが、事実、そういう力のひそんでいることは、よく知っていなくてはならない。光の子らは、社会の為に、個人的にも、団体的にも、自己本位の意欲を、欺いたり、当てをはずさせたり、利用したり、抑制したりすることが出来るように、闇の子らの智慧を具備する必要がある。


「自己本位」。そういえば、「自己本位」って、漱石も「私の個人主義」の中で使ってた…。

私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。今は時勢が違いますから、この辺の事は多少頭のある人にはよく解せられているはずですが、その頃は私が幼稚な上に、世間がまだそれほど進んでいなかったので、私のやり方は実際やむをえなかったのです。私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図(さしず)をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります


考えてみれば、ことしは「他人本位」と「自己本位」の間で右往左往して、結局どこへも行けないで終わってしまった1年だった気がする。

たぶん来年は、いろんなことが大きく動く1年になる。仕事でも、プライベートでも。だから来年こそ、「自己本位」ということについて、きちんと向き合わねばならない、ということを今から覚悟しておこうと思う。来年は、もっと先に進もう。今よりずっと先に。

ダーウィンは、冷徹なまでに論理的な人でした。
ある時、彼はその頭脳を駆使して、「結婚の損得表」を作成しました。
その結果、結婚によって失う「自由時間」「思索の時間」などを考えれば、
結婚というものは自分の人生にとって損失の方が多い、と結論づけました。
この損得表に従い、自分は一生思索と研究の道をひとり進もうと。

しかし数年後、彼はその「結婚の損得表」を破棄します。
そう、彼は恋に落ちたのです。
ダーウィンは結婚し、子供に恵まれ、幸せな家庭を築きます。

と、ここまではよくある話です。

ダーウィンが非凡なのはここからです。
当時、「進化論」の論文を書いていた彼は、
自分がやすやすと持論を曲げて恋に落ち、
結婚してしまったことに、深い「疑念」を持ちます。

理論的には、「個体」として考えた場合に、
結婚にはプラスよりマイナスの方が多い。
その考察は間違っていない、とダーウィンは考えました。
しかしながら、人は理論的には損失をもたらすような行為、
「結婚」つまり「愛」を自ら選び取る。

「クジャクの羽根」と同じだ!と彼は気づきます。

クジャクのオスがもつ優雅な羽根は、生存上の「損得」からいえば、
明らかに「損」です。重いし、動きづらいし、外敵から逃げにくい。
しかし、クジャクの羽根は、何世代かを経て、
より豪華に、より優美に進化してきた。それは、なぜか。

それは、クジャクのオスが、メスをひきつけるためなのではないか。
大きく美しい羽根でメスを誘惑し、より多くの子孫を残すための、
いわゆる「性淘汰」としての進化だったのではないか。

同様に、高度に脳を発達させ、理論的な推論を出来るようになった「人類」が、
より多くの子孫を残すためには、「結婚は理論的には損失をもたらす」という
「理性」を、破棄させる必要があったのではないか。
そうして、進化の過程で人類が身につけたのが、「愛という狂気」なのではないか。

「愛」は、そのすさまじい「狂気」の破壊力で、「理性」を打ち破り、
「理論的には損失をもたらすかも知れないが、進化のためには必要なもの」として、
「性淘汰」としての進化の過程で、人類に与えられたものなのではないか。
「愛」は、「クジャクの飛べない翼」なのではないか。

…というようなことが、この本に載っていて。

すごくこの「ダーウィンの性淘汰の理論」に今ハマっています。

この本を読み終えた後、いまは、
ジェフリー・ミラーの「恋人選びの心」に移行中。
これも、ダーウィンの理論を受けての「進化心理学」の名著で、示唆に富んでいます。
まもなく読み終わるので、そうしたら原典であるダーウィンの
「人類の進化と性淘汰」を読もうと思ってます。

ここから新しいアイデアが生まれそうな気がしていて、
なんだかわくわくしています。
そんな感じで、ぼくの2011年は、
ダーウィンで締めくくられようとしています。





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